ご挨拶・プロフィール

しぎよしのり写真
こんにちは、しぎ芳則です。
平成25年12月15日に岸和田市長に就任いたしました。
今回、私に与えられた課題は、停滞感を一掃し住みよい岸和田市を創っていくことだと受け止めております。
平成10年9月、53日にも及ぶ意識不明の状態から蘇らせていただいた経験を元に岸和田の為に誠心誠意取り組んでまいります。

プロフィール

信貴 芳則(しぎよしのり)

自己紹介

生年月日
昭和36年2月26日
出身
岸和田市 三田町
家族
妻、長男、次男、おばあちゃん
学歴
山直北小学校、山直中学校、明星高校、同志社大学卒業
経歴
昭和36年2月26日、岸和田市三田町で印刷業を営む家に生まれる。
  両親が働きづめだったので、幼少期を保育所で過ごす。
その後、幼稚園に移ることになったが、親はやはり仕事で放課後は外で友達と遊んでいた。
  昭和42年、山直北小学校に入学。
小学校時代はやんちゃな少年だった。また、公民館の広場に来る紙芝居を楽しみにするなど、紙芝居を縁に読書を覚えた。小学校に入ってからは、少しずつ家業を手伝うようになる。
  昭和48年、山直中学校に入学。
生徒会活動に参加する。会長選挙を経験し、友達と自分たちの主張を行った。市内の他の中学校との交流を提案し実現させる。
  昭和51年、明星高校に入学。
家業の配達などを手伝いながら高校に通う。遠方であることと、家業の手伝いもあってクラブには所属しなかったが、親は自主性を重んじてくれたので、友達との交流を広げることができた。
この頃は友人と沿線巡りや、だんじり祭りの案内などもした。
  昭和54年京都にあった同志社大学商学部に入学。
家業の印刷工場を大会社にしてやると夢見ていた。
大学で家業の手伝いをしている中で、印刷物の配達などで大阪府議会議員井上新造先生の経営していた会社に出入りするようになった。
大学卒業間近の昭和57年に、井上先生から府政の手伝いをしてほしいと声がかかり、秘書として10年間勤める。
昭和62年5月、妻和代と結婚した。昭和63年に長男、平成3年に次男が誕生。
  平成3年ごろから井上事務所に在籍しながら調理師養成施設を運営する学校法人の職員を兼ねる。
平成4年に井上事務所を完全に退職し、学校法人の専従職員となる。
生徒集めに奔走し、広告宣伝の担当として安定した生徒募集に力量を発揮した。この時の経験で人に何かを伝えることの難しさと大切さを学ぶことになった。
  平成5年より抜擢されて調理師養成施設の校長を努める。
平成8年、学校法人が介護福祉士の養成施設を設立することになり、その設立に尽力し調理師養成施設と校長を兼務することになる。
その後、調理師養成施設に製菓衛生士養成施設を創設、介護福祉士養成施設には精神保健福祉士養成施設を創設し、平成14年まで学校法人に勤務することとなる。
  学校法人に勤務している間、平成10年9月11日肺動脈破裂により大量の喀血をする。喀血と同時に意識不明になり、植物人間状態となる。
しかし、約2ヵ月後、奇跡的に覚醒し周囲を驚かせる。
その後、激痛に耐えながら社会復帰のためにリハビリや治療に取り組んだ。その9ヶ月の闘病生活の体験記は「植物状態からの生還」に著している。
  平成15年4月、子どもの頃からから温めていた志として、子育てしやすい岸和田にしたいという思いと、自身の命を助けてくれた医療の充実を実現したいと市議会議員に立候補。以後3期連続当選。
議会活動としては、医療の充実はもちろん、中学給食の実施や食育、保育、学童保育のサービス向上、生涯学習施設の充実、福祉の見守り活動の推進などを重点的に行ってきた。
  平成19年副議長・23.24年議長。
平成19年からは法務省保護司としても活動している。
出版物
「植物状態からの生還」
肺動脈瘤破裂とその後の低酸素脳症という致命的な症状から、9ヶ月間の闘病生活を経て完全に復帰するまでを自ら書き記したものです。
2001年5月出版
テレビ出演
フジテレビ「奇跡体験!アンビリバボー」
2004年10月7日放送「夫を突然襲った病魔」
Youtube動画「奇跡体験絵アンビリバボー夫を突然襲った病魔」>>

職歴

昭和58年4月~平成5年3月
学生時代より故井上新造府議の秘書を10年間
平成5年4月~平成14年3月
(学)大阪調理製菓専門学校長を9年間平成14年3月まで務める。兼任として、平成8年4月より平成14年5月まで大阪健康福祉専門学校長。
平成9年4月~二期4年
(社)大阪府専修学校各種学校連合会理事、
調理栄養学校部会部会長
平成20年4月~
(学)大阪夕陽丘学園短期大学、高等学校理事
平成25年12月15日~
岸和田市長就任
平成25年12月15日~
全国競輪施行者協議会副会長
平成26年4月~
大阪府市長会理事

議員歴

初当選
平成15年4月 岸和田市議会議員
二期目
平成19年4月 岸和田市議会議員
三期目
平成23年4月 岸和田市議会議員
役職
平成15年度 文教民生常任委員会副委員長
決算特別委員会副委員長
岸和田市貝塚市清掃施設組合議会議員
  平成16年度 総務常任委員会副委員長
岸和田市貝塚市清掃施設組合議会議員
  平成17年度 岸和田市貝塚市清掃施設組合議会副議長
総務常任委員会委員
岸和田市貝塚市清掃施設組合議会議員
岸和田市民生委員推薦会委員
  平成18年度 事業常任委員会委員
議会運営委員会副委員長
岸和田市貝塚市清掃施設組合議会監査委員
岸和田市民生委員推薦会委員
  平成19年度 第63代 岸和田市議会副議長
総務常任委員会委員
岸和田市防災会議委員
  平成20年度 総務常任委員会委員長
  平成21年度 文教民生常任委員会委員
岸和田市民生委員推薦会委員
南大阪振興促進議員連盟幹事長
  平成22年度 文教民生常任委員会委員
岸和田市土地開発公社評議員
南大阪振興促進議員連盟幹事長
  平成23年度 第68代 岸和田市議会議長
  平成24年度 同 上
  平成25年度 総務常任委員会委員
岸和田市青少年問題協議会委員

地域活動

平成15年度
岸和田市立山直北小学校PTA会長
泉南地区PTA協議会会長
大阪府PTA協議会理事
平成19年~
法務省保護司
上宮高等学校保護者会役員

インタビュー

Q1. 幼少時代の思い出は?

両親が自宅で印刷屋工場を営んでいて、朝早くから夜遅くまでインクまみれになって仕事をしていました。 ですから、小さな頃は保育所で育ちました。 私も親が一日中働く姿を見て育ったので、今でも根をつめて働いてしまいます。
その後、幼稚園にあがる年齢になって、親も色々と悩んだようですけど幼稚園に通わせてくれました。 でも、幼稚園が終わって家に帰っても両親は相変わらず、仕事ばかりしていたし弟も生まれて余計に忙しくなったので、私は悪ガキ軍団の一員として地元の川や原っぱで自由に遊んでいました。

Q2. 小中学生では?

公民館の広場に紙芝居が来るんです。いつも場所取りをしながら、先頭を切って見に行っていました。私は、この紙芝居の思い出があるので今では、読み聞かせ活動をしています。また、この紙芝居で、物語に目覚めました。学校にある本などを読むようになったのもこれがきっかけです。

Q3. 中学では生徒会活動をされていたとか?

紙芝居のおかけで、よく本を読みましたので、少しマセてきて政治的なことに関心が出てきました。結構、生徒会の選挙は激戦だったんですけど、同級生がたくさん応援してくれて生徒会長になれました。この時にはじめて、選挙を経験して、たくさんの人の応援でなれたんだと思いました。それは今でも同じですね。私の成果としては他の中学との交流事業を増やしたことですね。楽しかったです。

Q4. 高校は、大阪市内だったそうですね

はい、高校は大阪市内の明星高校でした。朝早くから通学しなければならないのです。私立に行かせてくれた親には感謝しましたが、大阪市内に出るには朝の7時には家を出なければならない。自分で決めた学校ですが、ちょっと後悔しました。でもまあ、親が朝早くから働いていたので、今でもそうですが、朝は強いので何とかなりました。でも、帰りが大変でした。クラブに入るかどうか迷ったのですけど、家業の手伝いもあったので、帰宅部でした。でも、親はできるだけ自由にさせてくれました。そのおかけで通学エリアの市内の名所を色々と見ることができました。時間があったので他校の文化祭などにもけっこう行きました。また、友達をだんじり祭りにも案内して、岸和田の宣伝をしていました。

Q5. 大学に進まれてからはどうでしたか?

大学は京都の同志社大学です。商学部に在籍です。この頃の夢は、家業の印刷屋をでっかい会社にすることでした。大学には家から通学していました。なんせ遠いもので、途中下車が多くなり、高校時代にも増して行動エリアが拡がりました。

Q6. その後、大阪府会議員の秘書になられましたが、どんなきっかけですか?

学生時代に家業を手伝っている時に、井上新造先生の会社に印刷物を納品したりしていました。 この時に、井上先生に声をかけていただいて、秘書にしていただきました。秘書とはいっても、政治のイロハも知らないし、きちんとした組織でも働いたことの無かった若輩者です。仕事を教えてくれる先輩もいません。1人で毎日、井上先生に直接、叱られながら仕事をこなしました。結局、それが愛の鞭だったと今では思えます。実業家でもあった井上先生からは大学では学べなかった商売の心得と仕事のやり方を叩き込まれたと気づいたのは後になってからです。
仕事とは、目標を決めて、突き進むこと。そして、その為の段取りを綿密に行うこと 段取りができたら、わき目も振らずに進むこと
そんなことを叩き込まれました。結局、秘書として10年を過ごしたのですが、本当に貴重な経験でした。

Q7. その後、調理師養成施設の職員になられたんですね

はい、調理師養成施設の職員になりました。何でも残さずに食べるということを親から叩き込まれていたのですけど、ここでは、もう一つ突っ込んだ食の教育、食育とジャンルがあることを具体的に知り実践しました。私が後に、病から復帰できたのも、食育によって自分の体を作っていたからだと思っています。平成5年には、若い私を校長に推挙していただきました。校長として調理師養成施設に製菓衛生士養成施設を創設することができました。阪神大震災の時は、生徒たちと現地にケーキを運んで喜んでもらえました。

Q8. 介護福祉士の養成施設の設立にも携わられたとか

はい、介護福祉士の養成施設の設立にかかわり校長をさせていただきました。その後、精神保健福祉士養成施設を創設しました。この時、色々な福祉施設を回ったり、卒業生と一緒に福祉の現場をたくさん見ることができました。日本の福祉行政の現実を垣間見ました。高齢化時代が到来しているけど、日本はまだまだ高齢者や障がい者がちゃんと暮らしていける仕組みができていないと痛感しました。

Q9. 意識不明となった病気のことについて教えて下さい

平成10年9月11日肺動脈破裂により大量の出血にみまわれました。喀血したんです。救急車で運ばれましたが病院に着いた時には既に意識はありませんでした。家族が献身的な看病、担当の医師や看護師さんたちが頑張ってくれたおかけで約2ヶ月の意識不明から覚醒しました。臨死体験として不思議な記憶が次々と蘇りました。その後9ヶ月の闘病生活を送りました。その体験記は「植物状態からの生還」に書いています。ともかく、再び、自分の足で歩きたいという思いが一番のモチベーションでした。

Q10. 市会議員になられた動機は?

平成15年に立候補しました。子供の頃から温めていた志として、母親の働きながら私たちを育ててくれた背中を見て育ったので、子育て問題、子育てしやすい岸和田にしたいという思いが一番でした。その象徴は中学給食です。京都の大学にいって、地方から来ている友がみな、中学給食が当たり前ということにショックを受けました。全国で実施率90%近く、大阪では半分にも満たないという現実を変えたいと思いました。また、学童保育が5時までだったり、色々と働く親にとっては厳しい現実が岸和田にはありました。そういう小さなことを一つずつ解決していこうと思いました。 また、命の大切さも身をもって経験したので、特に医療の充実もライフワークとして取り組みたいと思いました。そして、教員時代の経験を活かし、福祉分野、生涯学習の充実に取り組みたいと思って立候補を決意しました。

Q11. 家族のことを教えて下さい。奥さんとは幼馴染だそうですね

はい、小さな頃から一緒に祭りに参加していました。

Q12. 自然と結婚されたのですか?

学生時代に、妻と久しぶりに会いました。立ち話で京都の大学に行っているんやね。京都はよく知らんといわれたので、京都案内に誘いました。 それからです。子供たちが生まれたり、節目節目では、夫婦の思い出の場所として京都小旅行、ほとんど日帰りですけど、京都に行くことが多いですね。

Q13. 奥さんの闘病日記は凄いですね

私の本の半分は妻の日記です。意識がなかって何も覚えてない私の文章より妻の日記の方が評判がいい。

Q14. 子どもさんは二人ですね

男の子が二人で私が倒れた時は、二人ともまだ小学生でした。妻が私の看病に全力投球なので、しばらくは妻の実家から学校に通っていました。子どもたちも今は成人しました。いつまでも子どもだと思っていましたが、親よりしっかりしていると、親ばかですが、頼もしく思う時があります。

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1994年家族で遊園地
1999年退院直後自宅にて
2001年5月出版
2001年10月だんじり祭り次男と
2003年老人ホームで体験談
2003年4月1回目の市議選の前
長男の中学入学式の日に
2003年初当選 弟と
2003年10月中山太郎氏と家族全員
2007年4月二度目の当選 妻と
2008年長男成人式 家族
2008年4月 市議会 副議長として
小学校にて紙芝居
2012年4月 市議会 議長として
2013年2月 節分
2013年9月 記者会見
2013年10月だんじり試験曳き次男と
2013年10月 だんじり試験曳き